令和5年度 量子医療推進講演会 講演2

「宇宙医学の歴史と多様性」

筑波大学大学院 医学医療系 教授
日本宇宙航空環境医学会 評議員
松崎 一葉 氏

宇宙医学の分野で講師が取り組んでいる内容について紹介された。現在の宇宙医学は、基本的に宇宙という究極の有害職場で働く宇宙飛行士の健康管理が目標となる。働く人の医学の一分野であり、産業医学・宇宙医学という新しい分野の中で、宇宙飛行士の選抜と訓練と、宇宙ステーションに行ってからは、宇宙飛行士の遠隔でのカウンセリングなどが対象となる。

広い宇宙空間の移動を考えるならば、Singularity――技術的特異点と言う科学技術の革命が必須となる。どのような技術的な革新が起こるのかはからないが、今日の話題の量子医学もSingularity――技術的特異点にあるかも知れない。Singularityについて学べば、過去の重大な出来事や、そこから派生する未来についての見方が変わる。過去の万有引力が支配する宇宙から、相対性理論、量子力学による宇宙へと変革してきており、最近では宇宙を量子のもつれというこれまでの理解を超えた宇宙論が提唱されてきている。

Singularityということを考えるにつけ、現在は様々な分野で技術的特異点が、そう遠くはないところで起こりつつある状態だということと認識される。当面は地球以外で生存可能な場所(Habitable zone)としては、太陽系内では火星や土星の衛星のエンケラドスなどが、液体の水の存在により想定されている。イーロン・マスク氏は、2030年までに火星に人を送ると宣言し、民間活力を総動員して将来は100万人を火星に移住させる計画である。ここでは、テラフォーミングという火星の環境自体を全部変え、磁場を安定させて人が住めるようにする技術が必要となる。ただし、火星を往復するには現状で往復で2年半かかり、乗員は狭いスペースの中の様々な制約の下で、無重力状態で長期間耐えなければならず、健康管理の面での多くの課題がある。

最近、火星よりも月の開発に注目が集まっている。何より歴史的に多くの情報があることとアクセスが格段に容易であることによる。2018年にインドのチャンドラヤーンという探査船が、月の南極に巨大な氷の塊を発見したことを契機とする。この氷の塊を溶かせば液体の水が手に入る、太陽熱源、光があるので水から電気分解で水素と酸素が出来ることで住むことが可能になること。この流れに沿って移動可能なゲートウェイ宇宙ステーション建設により月へのアクセス確保と、月面基地建設に向けたARTEMIS計画が発表されている。2020年に米・豪・カナダ・日本・ルクセンブルク・伊・英・UAEなどの合意・署名が行われた。日本のJAXAもこれに沿って様々なミッションを計画している。今回、JAXAで宇宙飛行士の候補生を2名採用したが、これはARTEMIS計画要員である。将来、月面基地建設で働く要員である。月面活動に伴う宇宙放射線下での健康問題を始めとして微弱重力による影響等、様々な医学的な課題が想定される。肉体的な問題に加えて深刻なのが精神心理的問題、様々なメンタルの問題を克服することが重要となる。

宇宙飛行士に期待される資質として最重要な項目が多様性、様々な才能の混在が取り上げられている。この尺度は、未知のSingularity対応能力、これを乗り越えて活躍できる資質である。答のある問題に対していかに速やかに答えに至るかはAIの得意とするところであり、早晩とって代わられることになる。困難な、先の見通せない状況において、ある成果を生み出すための最適なアプローチとは何かを判断し、工夫しながら実践する力が求められる。知識・専門性を多く持っている、苦労を克服した、思考力が高いとかは関係ない。にっちもさっちもいかないところをいかに突破できるかという総合的な能力として、宇宙飛行士に端的に求められるものではある。この能力は、Singularity対応能力として今後は一般にも求められゆくものであろう。

宇宙医学の発展と課題の変遷について解説された。初期1980年代の生きて帰れれば良い時代から近年の快適に健康で過ごすところまで進歩しているが、依然として健康上の問題がある。いわゆる体の問題とメンタルの問題の2つであり、特にメンタルの問題が深刻となる。高度のストレスが回避できないようなところを私たちは耐え抜いて、どういう基準でストレスをマネジメントしていけばいいのかということであるが、これにはSOCという感覚が取り入れられている。SOCとは「健康生成論(Salutogenesis)」とその中核概念である「首尾一貫感覚」(Sense of Coherence,略称 SOC)である。第2次大戦後のホロコースト研究に基づく理論で、戦争終結とともにナチの強制収容所から解放されて、ポーランドに帰った人たちのほとんどが数年以内に亡くなっていた。劣悪な環境の中で強いストレスを受けると人間は長生きができないが、全く病気をせずに85歳平均まで天寿を全うした一群もいた。このタフな人々を研究して、健康生成論というものが提唱されるに至った。現在の医学は疾病生成論であり、障害の原因となるリスクファクター――腫瘍、原因菌、ウイルス、ストレッサーを同定して、それを除去するという医学であるが、リスク下にありながらも、健康獲得・維持を可能にする要因――サリュタリーファクターがあり、これを強化してしまえばいいのではないかという考え方が注目されている。つまり、サリュタリーファクター、健康生成の力があれば、不可避のストレスがあったとしても、それを物ともせずに乗り越えていく、自分の内側から健康を生成することができるということである。 Singularityがもたらす未来において、高度なストレスがあるかも知れない中で、求められるのは理不尽や想定外があったときに、そこで全くめげないような情緒性である。未知の世界である月面に住むとか、最近の災害が頻発している困難な中で、大事なのはやはり人の心の痛みが分かるとか、そういう情緒性であろう。この情緒性と論理性のバランスが、実は、これからの世の中では非常に大切だということである。多様性と宇宙医学の歴史を通じて、将来に繋がる多様性への対応力と健康生成力という概念が解説された。

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